『狼煙』


鏡の中で別の声がこだました。


「お前も、めっきり白髪が増えたな」
「お前自身のツケを払っただけだがな」


鏡の中のうらぶれた男は、強張った笑みを口角に張り付かせていた。




尾羽打ち枯らす……とは良く言ったもんだ。
まさしく今の俺がそうじゃないか。
羽振りが良かったのも一時だけだったな。
何をやっても成功間違いなしと信じていたっけ。


どこで歯車が軋み始めたのか……。


しがみついていた安物のプライドは、大きな岩に当たって砕け散り、
いつしか深い深い谷底に消え去っていた。



だが、いまだに虚勢だけは昔と変わらない。
このスーツと、シャツと、ネクタイ。


すべては、過去に俺が愛した、俺を愛した、女が選んでくれたものだ。
あらゆるものを手放しても、この服だけは栄華の残滓として手元に残っている。
そのネクタイをぐいっと引き締めた。


そして俺は


迎えてくれる暖かみなど
微塵も期待できない
西向きの部屋の灯りを叩き消して
ドアを開けた。




あまりの無情感に、眠れない夜が続いていた。
幸せだと錯覚していた、泡銭に胡座をかいた自堕落な生活の末
明日を考えることに疲れていた。
いや、恐くなっていたんだろう。


眼を閉じると、どこからか声がする。
「お前はもう終わりなんだよ」と。


気がつくと、俺は携帯に封印していたひとつのアドレスに向けてメールを打っていた。


 元気か。どうしてる?


 俺は、今どうしようもなく落ちぶれているんだ。
 昔のように、抱きしめてくれないか?
 慰めてくれないか?
……という、二行目以降は虚勢が打たせなかった。



 覚えていてくれたのね。


この一行に、俺の心臓はグイと掴まれ……
この一言に、俺は呪縛のように絡め取られ……


最後に人の暖かさに触れたのは、記憶の彼方に消え去るほど昔だったような気がする。
忘れていた「ときめき」に似た、青い感情が俺を突き動かしていた。




女は上質のワインのように、美しく熟成していた。
うわべだけを飾るような背伸びをしたものではなく、確かな生活に根ざしたふくよかな丸みと奥深さを感じさせる熟成が見えた。


 あの頃は、彼女のこの内面の美しさに気づいていなかったんだな……


立て板に水のようなソムリエの言葉がテーブルの上を滑る間、俺は女の瞳に映る灯りを見ながらぼんやりとそんなことを考えていた。
そして、叩きつけるような情事の残り香に浸っていた。




ホテルの部屋のドアを開けた瞬間、俺は堰を切ったように女を抱きしめた。
きつく、激しく、乱暴に。
それは、今の俺を忘れたかったからに違いない。
女を抱きしめることで、昔の俺に戻れる……頭の奥でそう思っていたのかもしれない。


自分の興奮を誤魔化すためか、画面の中の「つくりもの」に自分の虚勢を隠してもらいたかったのか、もしかするとその両方の「隠蔽」から、俺は無意識にアダルトビデオのチャンネルを入れていた。


 こんなにもいい女だったのに
 目の前に幸せのカタチがあったのに
 なぜ、軽々と手放してしまったんだ
 ここに、安らぎがあったんじゃないか


今さら何を悔いてもすべてが遅すぎる。
そんなことは判りすぎるほど判っている。


 この感触だ
 ここに俺の胎内回帰がある
 俺が眠れる場所がここにある


昔と変わらない、ふたりだけのルールの中で時間が過ぎてゆく。
計算など必要のない「わかりあっている」という確かな手応え。


 あのころ、俺は
 この女の両腕に抱かれ
 その胸に耳を当て
 トクントクンという鼓動と
 胸に低く響く声に包まれて
 「幸せというもの」を感じていた
 不安とは無縁だった



うら寂しい現実が今にも背中を叩きそうな、不安なぞくぞく感と、
しっとりと俺の全身を包み込む、めくるめく快感とのせめぎ合いの中で、
俺の中に埋もれていた感覚が弾け、記憶が飛び散るように二度果てた。


こんな事はしばらく無かった。
もう、終わったと自分では思っていた。


 俺もまだ現役だったか


頭の中で、ふとそんな言葉が点滅する。
だが、現役だとかそういった問題じゃないのは判っている。


この女だからなのだ。
この女だけが、俺のすべてを抱擁してくれるからなのだ。




がっしりとした年季の入ったカウンターに熟成された豚の足が運ばれてきた。


 プロシュートにはパルミジャーノ・レッジャーノだな
 チーズの王様さ


そんな無意味な蘊蓄で、空虚な時間と距離を埋めようと足掻く。
噛めば噛むほど滲み出てくる肉の旨味とチーズのコクに、女の体温と喘ぎ声がかぶる。
ワインを口に含むと、鼻腔に女の匂いが抜ける。


それは
ほんの二時間前の出来事が、遠く遠く過ぎ去って行く寂しさだ。
同時に
俺の胸の中には、いつもの小さな黒い影が再び脹らみ始めていた。



プロシュートか。
世の中がどう動こうが、硬直したまま止まった時間を積み重ねるだけの肉の塊。
いずれ、蘊蓄と欺瞞だらけの唇に、腹に、収められて終わりだ。
こいつらには、それ以外の人生なんてものは無い。


俺も同じなんだろうか。
今さら復活の狼煙など、あげようとしても燻り続けるだけなんだろうか。


底を見た男にまだ救いはあるのだろうか。


今、目の前にある熟成の美としっとりとした輝き。


 ワイン

 プロシュート

 パルミジャーノ・レッジャーノ


 そして……

 俺の心を、全身を、包み込んだ女。


この熟成の中で、俺は再び復活の灯りに触れることができるのだろうか。
この熟成は、俺を許容してくれるのだろうか。
こんな俺を。





それとも、このまま空しく腐敗していくのだろうか……


誰の記憶にも残らない……


一片の骨となって……






風呂場猫のハタ織り 『呪文』
http://c-u.g.hatena.ne.jp/otama-neko/20061130#1164896653

愚民の唄 『[ショート・ストーリィ]第1回特集のご案内。』
http://c-u.g.hatena.ne.jp/namgen/20061201